平井大島小松川・空手杉原道場

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自然の中の人間をみつめ、そのかかわりを探る

人はどのように自然と関わるべきなのか。
また、人間と自然の関係は一体何であるのかを探求しなければなりません。
自然に対して暴君のように振る舞う権限が、はたして人間にあるというのでしょうか?
正しい生き方を常に考えることは、すなわち自然の大切さを考える生き方に通じなければならなりません。

すべての存在には、必ずその存在目的があります。人間の勝手な思惑とは別に、そこには揺るがすことのできない、ある方向性をもった目的や意味が潜在しているのです。
そして、その存在が広大な調和を実現しています。
人間関係も同様ですが、この相手の存在目的に対してどのように対するかが、人格や修行の有無で差の生じるところでしょう?

修行を怠り、何らかの悟りを得ていない人にはどうみえるでしょうか?
まず、あらゆる存在にそれぞれの目的が内包していることも、絶妙の関係性を保ち調和をなしていることもみることはできないでしょう。
その目にうつるものは、どのように自分が利用するかという、存在そのものの目的ではなく、自分勝手に意味づけた利用目的のみです。さらには、調和や共存共栄ではなく、弱肉強食、優勝劣敗が目にうつります。
たしかに、小さな範囲でみれば自然界には弱肉強食的な要素がありますが、広い視野で見れば、それも調和の一要素に過ぎません。
勝手に自然界を弱肉強食と決め付け、人間の弱肉強食を正当化することは愚かしいことです。
また、もの言わぬ自然であるがゆえに、その人自身の心が投影されている事実にも気づくべきでしょう。
真剣に人格的な向上をはかり、悟りを得ている人にはどうみえるでしょうか?
自分が自然を、一方的に利用する私心は捨てなければなりません。
人間を含む自然などの存在は、私が造りだしたものではなく、私が認識する前から存在しています。
その存在をどう利用するかではなく、その存在そのものの、すでに内包している目的を探り生かすことでなければなりません。

むしろ人間を例にとればわかりやすいと思います。
誰かの思惑で、自分という存在が利用されることを望む人はいません。
誰にも個性や立場、何らかの目的がありますから、これを無視されてはたまったものではありません。
ましてや、それが、より強者からの圧力であればなおさらです。
親が子へ、先生が生徒へ、上司が部下へ、師範が弟子へ、強者が弱者へなど、弱い立場の存在が無視され勝手な強者側の思惑で利用されることが多々あります。
まさに、もの言わぬ自然に対しても人間勝手な目的を押し付け、ひたすらに利用した結果、多くの生物を絶滅させ、驚異的な回復力をもつ植物さえも回復できないほどの破壊を繰り返しています。

大きくみれば、人間も自然の一部であり、その調和の一部を形成する必要があります。
すべての人間や自然という存在には、固有の目的があり、自分勝手な思惑で目的を押し付けるのではなく、その存在に内包された目的を注意深く、慎重に探りだし、その目的を尊重し、いかすためにこそかかわりあうべきです。
人生の中での修行や稽古を通じて、調和できる心とこの見方を訓練し、人間も自然もいかせる人として完成を目指します。